03-2

第3話2章 一流のモテ男

「わかったよ。収録後にキャッシュで払おう。プラス飲み代でどうだ」
こんな待遇が許されたのは映画評論家の淀川長治さんぐらいだぞ、
そう返そうとした瞬間だった。彼はその驚くべき提案を口にしたのだ。
「いや、そうじゃないっす。ていうか、ギャラはいらないっす」
「なんだって?」

(1章「一流への序章」のつづき)

いや違う。僕は「なんだって?」なんて言わなかった。
そんな疑問形の反応はしていない。たしか「なるほど」
そうだ。深く息を吸って「なるほど」と言ったのだ。
そのあと、たぶん「そうきたか」とも言ったと思う。
ギャラはいらないという、一柳の真意がわかったからだ。

説明しよう。一柳の真意、および思考プロセスをまとめるとこうなる。

  1. 語り人から提示された仕事のギャラは、彼が自らに定めたギャラの下限を下回っていた。
  2. よってこの仕事を受けることはできない。受ければ自分の志(信念)を曲げることになる。
  3. でもこの案件は魅力的だ。やりたい。ならば方法はひとつ。仕事として受けないことである。

似たような経験が、かつて僕にもあった。
やはり友人の同業者からの申し出で、だけどそれはとてもギャラとはいえない額だったので、僕は「金はいらない」と言った。「ビールをご馳走してくれればそれでいい」と声の出演を快諾した。

ところが収録後、「少ないですが」と封筒を渡された。中にはとてもギャラとはいえない額の現金が、おしとやかに一枚入っていた。「いらないって言ったよね」と僕は固辞したが、「いえいえ、仕事は仕事ですから」と押し付けられた。

「友情出演のつもりだった。仕事だったら引き受けなかったよ」と僕は少し憮然とした。すると相手は「では、お車代ということで」と名目を変えてきた。押し問答のすえ根負けして受け取るはめになったのだけど、ひどく後味の悪い思いをした。そう、けっきょく僕は後味の良いビールにもありつけず、タクシー代にもならない「お車代」をもらって電車で帰ったのだ。

まあ、今回のケースとは似て非なる話だが、「志」という見地から言うと、一柳も僕も似た者同士なのかもしれない。いずれにせよそれは「武士は食わねど高楊枝」的な、ええかっこしいのやせ我慢に他ならないのだけど。

「語り人さん、話が早いっす。それでひとつ、手を打ってくださいな」

一柳に爽やかにそう言われると「そうだね。ま、いいか」と、つい手を打ちたくなる。シャンシャンって。しかし、ええかっこしいのやせ我慢と言われようが、やっぱりそうはいかない。

「そうはいかないな」と僕は反論した。「見事な三段論法だ。筋は通ってる。でもそれはおまえの論理であって、おれのじゃない。いいか、これは仕事なんだ。タダ働きをさせるほど、落ちぶれちゃいないよ。お互い、自分の主義は貫こうぜ」

そう言って僕は、「この話はなかったことにしよう」と付け加えた。
わずかな沈黙のあと、一柳のひときわ大きな笑い声が携帯を震わせた。

状況が不利になったとき、または悪気のなさを示したいとき、一柳はいつもとりあえず盛大に笑う。「笑いがすべてを水に流す」とでもいうように。

いわゆる「笑ってごまかす」のとは違う。一柳の場合「笑いで流れを変える」、もっと言うと「笑いで福を呼ぶ」という感じ。これも彼の愛すべきクセ、というか処世術だ。そして笑ったあと、相手を微笑ませずにはおかない、なんともいえない友好的なセリフを吐くことも。

「ていうか、会いたいっすよ。語り人さんと。
オレ、遊びにいっていいっすか。収録現場に」

(ほらきた。変わってないな、一柳)僕は笑いたいのを懸命に堪えた。

「語り人さんのビルゲイツ、聴きたいっす。バフェットと丁々発止やるんっすよね。オレ、ほっといてもバフェットになっちゃいそう。インテリジェンスのゲイツと、下ネタしゃべくり放題のバフェット。オレたちと同じ、最強のコンビじゃないっすかぁ!」

一柳は調子にのりすぎている。ここは諌めなければ、と釘を刺した。

「バーカ、同じなもんか。第一に、おれたちは金持ちでも成功者でもない。第二に、この対談中ゲイツは一貫してバフェットに敬意を表している。ふたりの資産額の差はともかく、かなりの年齢差があるからね。そして第三に…」

「ストップっす!」第三の理由を制止し、一柳は反撃に出た。
「第一に、語り人さんは好きなことだけやって食べていけるという点において成功者っす。それとオレは来年、金持ちになってるはずっす。第二に、語り人さんは出会ったときからずっとオレに敬意を表してくれてるっす。第三に、正当に振舞われるタダ酒ほど美味いものはないっす。これでどうっすか!」

たしかに丁々発止だ。成功者の定義に異論はあるが、わかったよ。一柳、おれの負けだ。手を打とう。

「ただし」と僕は言った。「女の子のいる店には行かないぞ。女の子以外なら、寿司でも焼肉でも何でも好きなものを食ってくれ」

女の子のいる店に行かないと言ったのには理由がある。
一柳はまずモテる。とてつもなく女にモテる男なのだ。

なんといっても彼は、頭はいいしマスクもいい。もちろん声もいい。そのうえサービス精神旺盛で女を飽きさせない。くわえて大学時代、ソーシャルダンスで学生チャンピオンに輝いた実績もある。

ダンスで身についた優雅な立ち姿、キレのある身のこなし。そして極め付けは、女性を虜にするその笑顔だろう。どこまでも爽やかで罪のない笑顔。
ある女性は言った。「あの笑顔はルール違反よね。女の子なら、だれだって恋に落ちるわよ」

実際、一柳が「Shall we dance?」と声をかけてなびかなかった女性を、僕は知らない。

とにかく、罪のない笑顔を持つ実に罪作りな男なのだ。そんな男とだれが好んで女の子のいる店に行くだろうか。だれが進んで引き立て役に甘んじるだろうか。

それがひとりだけいる。その物好きな男は、そのマゾヒスティックな男は、誰あろう僕だ。大学時代から、僕たちはそんな関係だった。

つまり一柳と僕はもう四半世紀の付き合いになるわけだけど(あれ、年齢がバレちゃうね!)、その話はセピア色の回想シーンでおいおい語っていくとして、現在に戻そう。僕たちはいま、電話でちょっと込み入った話をしている。

「それからもうひとつ」僕は電話越しにもう一本釘を刺した。「セリフは台本どおりにやってくれ。一字一句違わずにだ。セリフを勝手に創作することは許されない。これはビジネスなんだ」

すると一柳は、またしても驚くべきことを口にした。
「ご心配にはおよばないっすよ。いまオレ、女断ちしてますから。それと台本は当日、現場で拝見するっす。事前に下読みしちゃうと、マジ仕事になっちゃいますからね」

「おい待てよ…」僕は一柳の言葉の何かが引っかかったが、彼はお構いなしにつづけた。
「それに、台本は初見のほうが燃える。初めてやる女と同じだって、これ語り人さんの教えでしょ」

僕は断じて教えた覚えはない(…いや言ったかもしれない。きっと言ったのだろう。はい、言いました。だけどこれは「教え」じゃない)。とにかくまいったよ。もう一度、手を打とう。シャンシャン。

それにしても、大事な仕事を依頼したつもりが、一柳はこれをいささかも仕事と捉えていない…。本当に大丈夫なのか。

一抹の不安を残したまま一柳との電話を終えた僕は、彼が言ったことをあらためて反芻してみた。

さっきも言ったように、何かが引っかかった。何かを聞き流した気がした。やつのバリトンボイスに聞き惚れていたのか。そうじゃない。声の音域や質感に気を取られていたせいだ。この声で本当にバフェットができるのかと。

それはともかく、おまえが女断ちだって?
これは一柳をよく知る者にとってにわかには信じがたい発言だ。

「ナレーターなんかやめて顔出しの役者かタレントでもやれば?」
周りからそう言われつづけた彼は、いつもこううそぶいていた。
「顔出しなんかして面が割れちゃったら、ナンパができなくなるじゃないっすか」

実際に一柳は、これまで何度となく引き合いのあった顔出し案件(清涼飲料のCMとか民放のドラマ出演とか)を頑なに拒否してきた。ナンパができなくなるという理由で。

「どんだけナンパが好きなんだ!」あなたはそうツッコミを入れるだろう。でも本当は少し事情が違う。正確に言うと、やつはナンパはしない。する必要がないというべきか。先にアクションを起こすのは、そして恋に落ちるのは、いつだって女のほうなのだ。

そんな一柳が女断ち? これはたしかに一大事だけど、
それも気にはなるけど、ほかにも何かあったような…

金持ち? そうだ、これだ。一柳はたしかに言った。
「自分は来年、金持ちになっている」と。
おい、一柳。どういうことだ?

 

(次回につづく)

 

 

今日のボイスメモ、あるいは、声にまつわるささやかな教訓

  1. 「笑いがすべてを水に流す」「笑いで流れを変える」「笑いで福を呼ぶ」など、笑いは問題解決の万能薬だ。号泣したって何も解決しない。
  2. 武士は食わねど高楊枝」なんて今どき流行らないのかもしれない。しかし「食える・食えない」の問題に、時代も流行りもない。
  3. ええかっこしいのやせ我慢」を美学にまで昇華させた先に「武士道」がある。
  4. 言う方にとっても、言われる方にとってもキツい言葉、今回のナンバーワンは「この話はなかったことにしよう」。
  5. 酒・タバコ・甘いものなどの嗜好品、あるいは恋愛・男女交際など、好きなことを絶つ(我慢する)と願いが叶うという信仰がある。これは「欲しがりません勝つまでは」「ひとつ捨てればひとつ得られる」という発想に端を発している。まるで「克己心」の試験を受けているみたいだ。

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