絶賛連載中だった(?)「ジョージの伝言」6章を最後に消息不明になっていた語り人です。えっと、更新が昨年の8月だから、つまり半年近く僕は行方をくらましていたことになる。
続きを楽しみに待ってくれていたかた、そして借金取りみたいな催促のメッセージをくれたかた、ごめんなさい。正直に言います。語り人は居留守を使っていました。
あなたは何度もブザーを鳴らし、ドアをドンドン叩き、ドアノブをガチャガチャ回し、大声で僕を呼びましたね。「語り人さん、そこにいるのはわかってるんですよ!」
「ジョージの伝言」7章をお届けする前に、今日はその「言い訳」を聞いてください。むろん陳腐なありきたりの言い訳はいたしません。語り人ですから。この間に起こった不思議なお話をします。
僕にはいろんな不思議を呼び寄せる才能があるみたい(これを才能といってよければね)。
その前に、留守中も心当たりのない人からの心当たりのないメッセージがたくさん届いた。メッセージというか、ひと言コメントかな。
留守中というのは、ブログを留守にしてあっちの世界に行っていた、この半年間のこと。「あっちの世界」というのは、これはちょっと説明が必要かもしれないけど、簡単に言うと僕自身の内的世界のことです。
語り人のことをよくご存知のかたはブログ更新の気配が消えると「きっとまた缶詰め・瓶詰め生活を余儀なくされているのだな」と優しく放っておいてくれるのだけど、未知の人はそうはいかない。いろんなことを言ってくる。たとえばこんなの。
「私のブログも読んでコメントくださいね!」(読む理由がない)
「仲良くしてくれるとうれしいです♡」(仲良しごっこは嫌いだ)
「面白そうなオシゴトですね!(笑)」(何がそんなに可笑しい?)
「私のほうにも遊びにきてください」(それってなんの遊びだ?)
「実は私もナレーター目指してたりします」(勝手にやってくれ)
とまあ、こんな感じなんだけど、驚くべきは、これ一部抜粋じゃない。たったひと言。これだけを送りつけてくる。
みなさんはどう? きませんか、この手のIT(一方通行)でMK(無味乾燥)なコメント。(ごめん。僕としたことが、くだらない言葉遊びの流行に乗ってしまったよ)
あと、こんなのもきた。
「ユアボイス・マイボイス、ぜんぶ読みました。どれも本物の作品みたいで感動しました(本物の作品だよ)。ぜひ語り人さんとリアルにお近づきになりたいです(やめておけ)。…(中略)…ところで語り人さんの文章って、あれは村上春樹を意識してるんですか?」
これはちょっと食指が動いたので折り返した。
「ありがとう。でもリアルに僕に近づけば火傷をしますよ。それと文体は、官能小説家の渡辺淳一先生を意識しているつもりです。悪しからず」
案の定、それ以上何も言ってこなかった。
では、もし僕がこう返信していたらどうなっていたか。
「ありがとう。ぜひ、あなたのリアルな生声を聞きたいな。それとユアボイス・マイボイスの文体は、J.D.サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が念頭にあったことは否定しません。又吉直樹の小説に欠落している文学的洗練といったことを意識して書いています。ちゃんとできているかどうか、あなたの意見を聞かせて。そして、僕をライ麦畑でつかまえて」
こう返していれば、きっとメッセージのやり取りは続いただろう。リアルにお近づきになれたはずだ。夏までの僕だったらそうしていたかもしれない。でも今はちがう。この半年間で僕は変わったんだ。
変化は秋の訪れとともにやってきた。
昔の友人やかつての仕事仲間たちから立て続けに音信が届き始めのだ。その昔、恋人同士だった女性からも。なんの前ぶれもなく突然に!
もう何年も、あるいは10年20年も連絡を取り合っていない、 言い方は悪いが、すでに過去に属する人たちだ。 ふつうならそれって、何かの宗教か保険の勧誘(このふたつは僕のなかでは同類だ)だったり、もしくは同窓会の通知か不幸の手紙(このふたつも僕のなかでは同類だ)だったりするよね。
でもそうじゃない。彼らは何事もなかったように、いたってふつうに僕に会いたがった。なじみのレストランに予約でも入れるみたいに。
久闊の挨拶もそこそこに「一杯やろうぜ!」とか「ちょっと折り入って相談があるんだけど」とか「ぜひお会いしたいの」とか、まるで三か月前にも親しく顔を合わせたみたいなその誘い文句に、僕はドギマギしてしまった。おいおい、おまえとはかれこれ10年ぶりなんだけど!
この突然の過去通信(とでも言っておこう)は、仕事関係者も例外ではなかった。
それまで長らく僕の声を忘れていた人たち、それはたとえば無関心だったり黙殺だったり嫌悪だったり、波長が合わなかったり歯牙にもかけなかったり、そんなもろもろの理由から、とにかく僕のことを放念していたはずの人たちが、こぞって何年かぶりに仕事の依頼してきたのだ。
ひとりやふたりではない。十指に余る人たちが、時を同じくしていっせいに「せーの!」という感じで僕のことを思い出したらしいのだ。
もしもあなたが注意深く意識的な人なら、共時性(シンクロニシティ)という現象が、しばしば自分の身に起こることをご存知だと思う。
でも今回僕に起こった共時性は尋常ではない。関連性のない10人が同時に記憶の古いノートを開いたら、1ページ目に語り人がいたって? まさか!だよね。 シンクロニシティの提唱者、心理学者のカール・ユングもびっくりだろう。
そんなわけで僕は、プライベートでは彼らとせっせと旧交を温め、仕事では膨大な量の声案件をほぼ同時進行でこなさなければならなかった。ふだんのレギュラー仕事に加えてである。 つまり僕は、すべてのオファーを敢然と受けて立ったのだ。
働き者のクマのお花屋さんのように、僕は一心不乱に働いた。毎日毎日、指定された時間に指定されたスタジオに出向き、指定された声を丁寧にラッピングしてお届けした。理由はなんであれ、僕の声を必要としてくれた人たちのために。
時代がようやく語り人を理解したのか。そんな早合点をするほど僕はお目出度くもないし若くもないよ。長く仕事を続けているとこんなことはたまにある。これをもって「運気が上向いている」などとは思わない。「運気が…」これも僕の嫌いな物言いのひとつだ。
だからどうしたかって、つまり、だから僕は「ジョージの伝言」を完結目前にして放り出し、姿をくらませた(居留守を使った)…
親しい友人からの飲みの誘いも10回のうち8回はやり過ごした。(はい。2回は行きました)仕事で共演する綺麗な女の子たちと食事に行く誘惑も10回あれば9回は退けた。(はい。1回だけ行きました)好きなお芝居も映画もコンサートも我慢した。(はい。招待券をもらったものは行きました)
なにしろ、働きづめだった(と思っていただきたい)。
声の表現に埋没することが楽しくて心地良くて(いつもそうだけど)、
もうこれだけやっていれば満足だと。申し分のない人生だと。
何が悪い? 僕のことはうっちゃっておいてくれたまえ!
そうして現実生活の諸問題と向き合うことを放棄し、 リアルに僕と関わろうとする人、関わらざるを得ない人たちを蚊帳の外に追いやった。
「もういい。自由にしてあげる」
これはある人にメールで言われたひと言。
大切であるはずの人が去って行こうとするのを引き止めもせず、かといって、今後大切になるだろう人が歩み寄ってくるのを受け止めることもしなかった去年の秋。
そうして年が明けた。
仕事はやり遂げた。会うべき人にも会った。
いまはじめて、僕は休みたいと思っている。
仕事はすべてキャンセル、しばらく休みます、
そう告げようか。でもそれをやってしまうと、
先の保証はない。わかってる。
僕はそんな世界にいる。
自分探しの旅に出るかって?
いや、その必要はないし、僕はこの言葉を嫌いだ。
方法は知っている。ただ、つなぎ目を切り替えればいい。
「あっち」の世界から「こっち」の世界にね。カチャ。
そしてあらためて、僕はこう言わなければならないだろう。
「頼むから、僕を自由にしないでくれ」
ひとりでいることが自由でないことくらい、
僕だって知っている。
過去からの贈り物(中)につづく