どうやってエンディングを迎えたのか、よく覚えていない。
こうしてすべての収録を終えた。
海底から地上に戻り、僕は大きく息を吐いた。
(3章「ナレーターズハイ」のつづき)
レコーディングブースの分厚い扉が重たい音をたてて開くと、空気の組成が一瞬にして変化したのがわかった。異空間から戻ってきた人のように、僕はすっかり時間の感覚を失っていた。
そう、外の音を完全に遮断しているレコーディングブースは異空間だ。異空間といえば『ドラゴンボール』に出てくる「精神と時の部屋」が思い出される(またドラゴンボールか!)。
別名「時の異次元空間」と呼ばれるその部屋は、時間の流れが外界とは違う。外界での1日が、この部屋では1年(365日)に相当する。戦士が短期間にパワーアップするための、修行に最適な環境だ。神の神殿の最下層にあるとされ、本来は賢者になるための修行部屋として存在する。
ところで、この「精神と時の部屋」という言葉、現在は別の用法で使われるらしい。引用しよう。
「転じて、部屋にこもってトレーニングすること、缶詰になって勉強すること、自分の部屋に引きこもってネットやゲームをしていると、時間があっという間にすぎてしまうこと(はてなキーワードより)」
なるほど、部屋にこもってトレーニングや勉強はいいとして、ネットやゲームというのはいかがなものか。「精神と時の部屋」の使用目的に適合しないだろう。神様からも原作者の鳥山明氏からも、使用許可は下りないはずだ。そもそもここは、己との限界を超える闘いをし、強く賢くなることを目的とする部屋なのだから。
ならば、僕が台本を読むレコーディングブースを「精神と時の部屋」と称していることを、神様と鳥山明氏は許してくれるだろうか。許してくれますよね。少なくとも僕は、ここで限界を超える闘いをしています。おかげでずいぶんと強くなりました。賢くなったかどうかは疑問だけれど。
さて、ADさんの「お疲れさまでした!」の声で現実に呼び戻された僕は、ぐったりした足取りで「精神と時の部屋」を出ると、シーサーさんはじめスタッフたちのいるMA室へ入っていった。前回と同じく、全員がスタンディングオベーションで迎えてくれた。
「語り人ちゃん、ブラボーよ。今回もすごかったわ。
どう? 何か問題があったかしら」
「ひとつだけ」
「何かしら?」
「腹ペコで、もう何も出ない」
「ごめんね。長時間、いつもいろんなことをやらせて。
もう何も出さなくていいのよ。もう男を張らなくていいの」
そう言ってシーサーさんは、お腹をゆさゆさ揺すりながら豪快に笑うと、無抵抗の僕を強引にハグし、耳元で囁いた。
「いかにせよ、これでワタシの報復はすんだわ」
この言葉を聞いた瞬間、僕の脳内シナプスが繋がった。
「いかにせよ…」そうだ、これだ! シーサーさんの口癖。
彼は今日、この口癖を一度も口にしなかった。
ということはつまり、意識的に封印していたことになる。
「報復って、もしかして…」僕は恐る恐る口にした。
「いかにせよ心当たりがあるようね。語り人ちゃん、あなたワタシのことをあることないこと、面白おかしくネタにしてくれたみたいじゃない」
やっぱり、そうか…。恐れていたことが起こったというべきだろう。
なぜこのことに思い至らなかったのか。愚かな自分を呪った。
シーサーさんはこのブログを、第2話1章「声優ほど素敵な商売はない」を読んだのだ。
「ごめんなさい! あ、あれは…」
「いいのよ、とてもおもしろかったし、あの髭面のディレクターがワタシじゃなければ感動さえしてたわよ。でもさあ、いかにせよもすこしだけ、カッコよく書いてほしかったわぁ。なんかワタシ、おバカみたいじゃない」
「いえ、そんなつもりは…」
「どうせ、今日のことも書くんでしょ」
「いえ、もう書きません」
「いいえ、書くのよ」
「書きません」
「書きなさい!」
「カッコよくは書けません」
「いいのよ、ありのままのワタシで」
「書かせていただきます!」
こんな問答がひとしきりつづいたあと、シーサーさんは晴れやかな笑顔で言った。
「ありがと、語り人ちゃん。いかにせよ、アナタと沖縄を旅行できて幸せだったわ。このオーディオブック、ワタシの宝物よ」
「僕も幸せだった。僕の”読み”を最後まで信じてくれて、そして導いてくれて、感謝します。ありがとう、シーサーさん」
「とうぜんよ。ワタシの目に狂いはないわ」と言ってシーサーさんは片目を閉じて開いた(今のはなかなかステキなウインクだったよ、シーサーさん)。「あっ、なによ、アナタいま"オカマの直感に狂いはないのか"って顔をしたわね」
そう言ってひとりボケツッコミを決めたシーサーさんは、僕をキッと睨みつけると、すぐに満面の笑顔に切り替えて言った(なんて表情の豊かな人だろう)。
「それより、ねえねえ、次回はどこへ行こうかしら。ハワイ? マイアミもいいわね」わかると思うけど、僕はどっちも気が進まなかった(マイアミはとくに困る!)。
「今は何も考えられない。まずはゆっくり休みたいです」
僕はそう言ってごまかしたが、タフな試合を戦い抜いた直後のボクサーみたいなコメントをした自分を笑った。
「そうね。ワタシはどこでもいいの。語り人ちゃんと一緒なら」
「もちろん、いつでもご一緒しますよ。脳内旅行なら」
「リアルよりむしろそそられるわ。語り人ちゃんが夢先勧誘員で、ワタシが…」
「シーサーさんこそ、一流の夢先案内人です」
「あら、やっとわかってくれたのね。いかにせよワタシたち、お似合いのカップルだと思わない?」
「いえ、カップルという言葉は不適切です。名コンビぐらいにしておきましょう」
「いいわねぇ。一流のオカマ&101回ゲイに間違えられた男。お似合いのカップルにして名コンビだわぁ。いかにせよ、ふたりで事件でも解決しちゃう?」
「その力技のマッチングに無理な設定、やめてもらえます? それに101回も間違えられてませんし」
「アナタのいつかの文章にあったわ。数字はイメージでしょ。でもあれよね、小保方ちゃんもさあ、STAP細胞の作成に200回成功してます、なんて言っちゃったけど、いかにせよ"数字はイメージよ"って付け加えるべきだったわよね」
「小保方ちゃんって、知り合いですか。科学の世界で"数字はイメージ"はありえませんから。ともかく僕のブログ、ずいぶん読み込んでいただいているようで痛み入ります」
「本はとことん読み込み、男にはとことん入れ込むのが、ワタシにとって無条件に楽しい仕事よ。いかにせよ、100回断られたからって何なの。薔薇に棘があることが、美しさを損なう理由になるかしら。なりはしないわ。ってアナタ、うまいこと言うわね」
「いや、そこのくだりはオネエ言葉じゃなくて…」
「だからそこはさぁ、ワタシが言ったことにして書き直してよ」
「無理です。そこはシーサーさん、まだ登場してませんから」
「だからぁ、いかにせよもっと早くにワタシを登場させてほしいわけよ」
「もっとオレの出番を増やせと、そういうことですね」
「オレじゃなくてワタシ! ワタシがオレって言っちゃったらオネエじゃなくなるじゃない。オネエだから何でもありなんだからっ」
「確信犯か!」
そんな埒もないオチもない言葉のキャッチボールにふたりして大笑いしたが、僕の力ない笑い声はシーサーさんの猛獣の雄叫びのような笑い声にかき消された。
「さあさあ、おしゃべりはこのくらいにして、いかにせよ今は、語り人ちゃんのお腹をペッタンコにさせちゃったお詫びをするのが先決ね。ずいぶん遅いお昼になっちゃったけど、付き合ってくれるわよね。気のきいた沖縄のお店、チェックしておいたのよ」
「よろこんで、と言いたいところですが…」
僕はもうこれ以上しゃべれない。魂はまだ沖縄を浮遊している。
ひとりでクールダウンして、自分を取り戻す必要があった。
「わかったわ。アナタはもうお口チャックね。ワタシの顔も見たくないなら、離れた席でもいいのよ。お腹だけ満たさせて。さあ、行きましょっ」
これ以上抵抗する元気は、もう残っていなかった。
シーサーさんがウインク(らしきもの)をしてMA室を出て行こうとする、そのときだった。ADさんが消え入るようなか細い声でおそるおそる発言した。
「あ、あの…シーサーさん、も、盛り上がっているときに、も、申し上げにくいんですが、そ、その…休憩を取る時間は、な、ないと思われます。す、すぐに編集にかかりませんと」
その声にぎょっとして鬼の形相で仁王立ちしたシーサーさんは、気の毒なADさんにひとしきり悪態をついてから、優しい目を僕に向けた。
「ごめんね、語り人ちゃん。お聞きのとおりよ。この借りは近いうちに必ず返すわ。ゴーヤチャンプルーにソーキそばにタコライス、それからもちろん、最高級の琉球泡盛をつけてね」
思わぬ助け舟に安堵した僕は、これからもうひとがんばりしなくてはならないシーサーさんとスタッフたちに深々と頭を下げて、MA室をあとにした。
ぼんやりした頭で僕は思った。あのか細い声のADさんに、丹田発声法を教えてあげよう。堂々として自信に溢れた声が出せるように。シーサーさんに悪態をつかれないですむように。
地下スタジオから1階に上がりビルを出ると、日はすでに西に傾きはじめていた。ここは何処だ? 僕は自分のいる場所と方角を見失っていた。
たしか、僕は沖縄にいたはずだ。珊瑚が砕けた白砂を踏みしめた感触が、
足裏に生々しく残っている。海の鼓動に全身全霊をゆだねた痺れるような至福感も、脳内に澱のように沈殿している。
竜宮城から戻った浦島太郎さながらに僕は途方に暮れた。でも幸いなことに、僕の手に玉手箱はなかった。握りしめていたのは、シーサーさんからもらった魔除けのシーサーだった。
「いかにせよ、終わったわ。地上に戻れたのよ」
声にならない言葉を呟いてみたが、鼓膜を震わせたのは自分の声ではなく、シーサーさんの声だった。
「戻れたのよ、語り人ちゃん。もとのアナタに」
でも、いつも僕は思う。
戻ったとき、そこはもう元の場所じゃない。
少しだけ、自分の立ち位置が変わっている。
景色が違う。風の匂いが違う。言葉使いが違う。
人はそれを、シンプルな言葉で「成長」と呼ぶ。
手を開いてシーサーを見た。獅子を模したといわれるそのいかつい顔は、シーサーさんそのものだった。
(おわり)
今日のボイスメモ、あるいは、声にまつわるささやかな教訓
- ブログやSNSなどに特定の知人を登場させるときは、2割増し素敵にカッコよく書いてあげよう。あとで報復行為を受けないためにも。
- 自分を追い込んで限界を超える。そこではじめて見えてくる景色がある。するとまた次の景色が見たくなる。何かを成し遂げるとはそういうことだ。
- とはいえ、いきなり限界を超えようとするのは無謀だ。ひとつの型(フォルム、スタイル)を体得したら限界を超える試みをする。その繰り返しだ。
- たまには「我を忘れる」経験をしよう。でも自分に戻ることを忘れないように。「行ったら戻る」が鉄則。大切なひと、大事なものを失わないために。
- 「男はこうあるべき」「女はこうあらねば」という固定観念は人生を窮屈にする。その意味で、社会的な性の認識に異議を唱えるトランスジェンダーの存在は興味深い。
- 「魔が差す」という言葉もあるように、人は思わぬ魔性に取り込まれてしまうことがある。シーサーに限らず魔除けのお守りは有効だ。
- 潜在能力を引き出してくれる人との仕事はいつだって刺激的だ。(シーサーさん、あなたのことですよ。ニンマリ)