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第3話5章 一流の条件

茂森愛由美から手紙が届いたのだ。メールではなく、郵便で届けられた封書の手紙。彼女らしい端正な字体で綴られた、美しい日本語の手紙。
それから僕と茂森愛由美は、半年後の今も、毎週のように顔を合わせている。それを一柳は知らない。

(4章「一流の初恋」のつづき)

1999年シアトルのワシントン大学で行われた、ビル・ゲイツとウォーレン・バフェットの夢の対談。いわずと知れたマイクロソフトの創始者と投資の神様だ。当時、この世界No.1とNo.2の億万長者の顔合わせは「世紀の対談」といわれた。

翻訳作業は順調に進んでいくかに見えたが、あるところで苦戦を強いられにっちもさっちもいかなくなった(「にっちもさっちも」って、漢字で「二進も三進も」って書くんだって。知ってた?)

ビル・ゲイツの英語は正確でわかりやすい。語り口も端正で言語明瞭。ユーモアも上品で洗練されていて、なんの問題もない。

参考までにここで一例として、ふたりの生しゃべりを紹介しよう。
ゲイツはこんな具合だ。

「ええ。大学を辞めて会社を興すことに不安はありませんでした。創業のころはリスクのことなんか考えもしませんでしたよ。ただひとつ怖かったのは、何だと思います? それはね、雇った友人が給料をほしがったことです(学生たちの大爆笑)」(語り人訳)

一方、バフェットはというと、軽妙洒脱なユーモア精神の持ち主で語りの名手としても名高いが、自分のジョークに自分で笑うという禁じ手も多い。こんな感じ。

「人々がよくいうセリフはこうだ。『好きでもないけど、あと10年はこの仕事をつづけて、そのあとにやりたかったことをやるんだ』って。笑っちゃうね! これは年寄りになったときのためにセックスを控えているようなもので、なんともばかげた話だと思わないか(自分で爆笑)」(語り人訳)

バフェットの話には、この手の喩えが頻繁に出てきて苦笑を禁じえないのだけど、それは別にして翻訳上の問題があった。彼の声はダミ声で、話し方はしばしば言語不明瞭。ときにスラングも飛び出す。もともとの音源の悪さも手伝って、聴き取りにくいことこの上ない。

そう、問題はウォーレン・バフェットだった。それでなくても僕はリスニングが苦手で、いくつかのフレーズはもうさっぱりお手上げで、ネイティブスピーカーに教えを乞わなければならかった(それでもわからない単語や言い回しは残った)。

そんなわけで、結局そこは前後の文脈から無難で適切と思われる日本語をあてることになった。一柳だったらきっとそこは下ネタ風のアレンジを加えるんだろうな、と思いながら。

収録日の前々日、僕は一柳に台本と映像をメールで送った。
当日の初見読みを宣言した一柳だったが、やつはきっと事前に台本に目を通したいはずだ。目を通したいどころか、映像と合わせてしっかり読み込みたいに決まっている。これはナレーションじゃない。吹き替えなのだ。

吹き替えで映像の人物の口の動きに声を合わせることをリップシンクという。完璧なリップシンクになるように、翻訳した日本語はいつも以上に精査し、台本を仕上げた。

収録日当日。朝の10時にスタジオ入りした。この吹き替え収録を行なうときにいつも利用している横浜のスタジオだ。

ドアを開けると待ってましたとばかりに、スタジオのオーナー兼レコーディング・エンジニアの寺さんこと寺田さんが、いきなり僕のみぞおちあたりをパンチで連打し、興奮を押し殺した声で言った。

「語り人くん、あの子、だれさ? あの、しょんべんチビっちゃいそうな美人ちゃんだよ。どっかのアイドル?」

寺さんは、この横浜の地にスタジオを構えて30年のベテランだ。僕とは20年来の付き合いになる。

自分が産まれ育って親から譲り受けた7階建てのビルの地下で、「ここがおれの遊び場」と言いながら、毎日楽しそうに働いている。

あちこちのレコーディングスタジオが次々と廃業に追い込まれるなか、彼の少年のような親しみやすい人柄と、都内の半額以下という料金の安さもあって、都内からの利用者も呼び込む人気のスタジオなのだ。

マンガ大好きの寺さんの趣味はフィギュア制作だ。
いや、趣味なんてもんじゃない。副業か本業か。そんなこともどうでもいいくらい、とにかくプロなのだ。評判が評判を呼び全国から注文を受けるほどで、とりわけ彼の美少女フィギュアはマニア垂涎の的となっている。

スタジオの一画にフィギュアコーナーがあり、寺さん作のさまざまなフィギュアが特別仕様のケースに陳列されている。そしてそのセンターの座を占めるのが、彼の真骨頂というべき「美少女フィギュア」だ。その数30体で、これは非売品だそうだ。

「これ、おれのベスト30ね。1体50万で売ってくれって言われても売らなかったさ」と寺さんは、可愛いわが子を守り抜く父親のような顔で自慢する。

フィギュアの足元にはそれぞれ名札がついている。「水島愛理」とか「近藤優子」とか「足立香苗」とか、30体全員に名前があるのだ。

その人気はマニアたちがネットでファン投票を行うほどの盛り上がりで、上位7人は「神7」と呼ばれている。センターは2年連続で水島愛理が取っており、アイリーンの愛称で呼ばれ絶大な人気を誇っている。

「これ、みんな本名だよ。おれが今まで実際に会って、しょんべんチビりそうになった女の子たち」寺さんはフィギュアに興味を示すお客さんがくると、うれしそうに目を細める。

そんな、しょんべんチビっちゃうほどの美少女が突然、生身の姿で目の前に現れたものだから「これは一大事!」と、寺さんは朝から興奮しているのだ。

「えっ、もう来てますか? 10時半でいいって言ったのに」と僕は時計を見ながら言った。「彼女は今日、女性のパートを担当してもらう声優さん。まだ卵ですけどね」

「ねえ語り人くん、頼むよ。紹介してよ。おれ、久しぶりにビビッときちゃったよ。その、制作意欲をかきたてられたっていうかさ。あの子のフィギュアをさ、作りたいんだよね」

寺さんは来年還暦を迎えるというのにとても若々しく、なおかつシャイな人で、こんな商売をやっていながら女性とろくに話もできない純情派だ。

「いや、挨拶はしたよ。名前、名乗っただけだけどさ。おれ緊張しちゃって、チビりそうだったんでトイレ行ってさ。そのあと熱心に台本読んでるから話しかけるのも悪いし、邪魔しちゃいけないと思ってさ。ここで語り人くんがくるのを今か今かと待ってたわけよ。えっと、茂森さんっていったかな」

茂森愛由美──
僕だって今でこそ慣れたけど、半年前に彼女と連絡先の交換をしたとき、緊張して何も言えなかった。ましてや女性に奥手で、フィギュアとしかまともに話しができない寺さんだ。無理もない。

「寺さん、まあ落ち着いて。とにかく行きましょう。ちゃんと紹介しますから」と言って、僕は奥のロビーに入っていった。

4卓ある丸テーブルのひとつに姿勢よく腰をかけ、ペンを手に真剣な表情で台本を読んでいる茂森愛由美がいた。僕の姿を認めると顔中に笑みが広がり、きびきびした動作で立ち上がった。

「おはようございます! なんだか落ちつかなくて、早くきてしまいました。ご迷惑ではなかったでしょうか」

「おはよう」と僕は笑って返した。「僕は迷惑じゃない。だけど、スタジオの人はどうかな。迷惑だったかもしれないよ」

すると寺さんは顔を真っ赤にして割って入った。「迷惑だなんて、とんでもない! 営業は9時からだもん。もう1時間早くたってよかったさ。語り人くん、バカなこと言わないでよ」

ここで二人をそれぞれ紹介してから、僕はあらためて茂森愛由美に向かって言った。「現場には早くて15分前だ。それより早いと邪魔になる場合がある。早く着いてしまったときは近場でお茶をするか、軽い発声をしながら周辺を歩くといい」

「うちは問題ないさ!」寺さんがまた割って入った。「お茶はここで飲めばいいし、発声もここでやればいいよ。部屋は、じゃなくてブースは4つもあるんだ。いつきてくれたっていいさ」緊張しながらも、寺さんはなかなか大胆な発言をした。

「先生、常識が足りなくて申し訳ありませんでした。以後、肝に銘じます」茂森愛由美は僕に頭を下げてから、寺さんを見て言った。「ありがとうございます。お心遣いに感謝します」

茂森愛由美にそう言われ、寺さんはまた真っ赤になって「なーんも、なーんも!」と言いながら、顔の前で激しく片手を振った。

この辺でそろそろ説明する必要があるだろう。

半年前、僕は茂森愛由美から手紙をもらった。
それは僕に、個人レッスンを依頼する内容の手紙だった。

養成所では1クラス20名もいて、とても一人一人フォローできる体制ではない。自分はもっともっと学びたいし、もっともっと実践的な指導を欲している。

また養成所の講師に対しても、あることがあってから少なからず不信感を抱いている。レッスンより男女交際に熱心な人も見受けられる。とにかく自分は集中したいのだ。そんなことが書かれていた。

ほかでもない、こういう展開になることを僕は期待もし、同時に恐れてもいたのだ。その後のやり取りの詳細は省くが、とにかく僕は茂森愛由美の申し出を承諾した。

どうして断ることなどできただろう。断るとすれば、理由は何だ?

愚鈍な中年男になるのが怖い。それもある。でもそれ以上の理由がある。
僕は彼女に、実は方向転換してほしいと思っていた。声優ではなく、別の道に進んでほしいと。

ならば申し出を断るのではなく受けることで、つまり彼女と関わることで、その見極めをしよう。そう考えたのだ。

週に一回、90分の個人レッスン。場所は四谷三丁目。彼女がアルバイトをしている焼鳥屋。店長の山田さんがぜひ使ってくれと、店にある個室スペースを提供してくれた。もちろん開店前の時間帯だ。

レッスンが終わると茂森愛由美はそのまま勤務につく。そして僕はといえば、まことにありがたいことに、店長の好意で賄いをご馳走になる。

賄いは料理の得意なスタッフが作ってくれることになっていたが、茂森愛由美はそれでは申し訳ないと、レッスンの日は自ら腕を奮ってくれている。そして、その日の復習をしながら一緒にいただく。

仕事のない日はそのまま少し飲んで帰る。また近場で仕事が終わったときは顔を出し、ときには人を連れて暖簾をくぐるようにもなった。

つまり週に2.3回、僕は茂森愛由美と顔を合わせていることになる。山田店長とは今ではすっかり同士のような仲になり、店のスタッフたちとも気の置けない関係になった。

茂森愛由美は着実に力をつけていた。できなかったことができるようになる喜び、楽しさ。これを幼いころから勉強と空手の稽古で知っている彼女は、ひとつひとつの課題を確実にものにするコツを心得ていた。

感情や気分のばらつきが少なく、勤勉であり高い集中力を持っている。何より素直で可愛げがあり礼儀正しかった。

こうした資質こそが、僕に言わせれば一流の条件であり、成功者の適正なのだ。それがこの半年間で得た、茂森愛由美に対する僕の評価だった。

そしていよいよ、彼女にとって実践のときが訪れた。
ちょうどタイミングよく、女性の声が必用な案件が回ってきた。しかも、彼女にぴったりの役どころが。(タイミングのよさも彼女のえがたい才能のひとつだ)。

ひとつはアメリカのあるテレビ局のアナウンサーの役。話題の人をゲストに迎え、女性アナウンサーがインタビューする番組。ゲストは作家でありカリスマ・マーケターとして日本でも有名な人物。その声は僕が担当する。

そしてもうひとつの役が、米国コロンビア大学のエリート女子学生だ。例のビル・ゲイツとウォーレン・バフェットの対談で、ふたりに質問する女子学生の役を、声を変えて二人分やってもらうことにした。四人いる男子学生の役は、一柳と僕で分担するつもりでいた。

僕が正式にオファーを出すと、茂森愛由美は初めての声の仕事に飛び上って喜んだ。その勢いで僕に抱きつくと「わたし、先生にお会いできて本当によかった」と涙声で言った。

「喜ぶのはまだ早いぞ」体を引き離してから、僕はわざと冷たく言い放った。
「レッスンはこれからもっと厳しくなる。正確な母音キレのある子音の発音拗音の精度も上げていかなきゃ。語尾が弱くなる弱点も克服してもらう。アナウンサーの語尾を強く響かせる発声法をマスターするんだ」

「はい、先生についていきます」茂森愛由美は鼻をすすりながら言った。

「その声だ!」僕は雑念を払い、彼女の声だけに集中した。
「いま鼻声になったことで艶と響きが加わった」そう言って、アナウンサーがやっている鼻で響かせる鼻共鳴と鼻うがいの方法を教えた。

それからノートパソコンを開いて映像を見せた。正味20分ほどのインタビューだ。ひと通り見終わると茂森愛由美は、翻訳台本はいつもらえるのかと訊いた。

「僕はゲイツとバフェットの翻訳に傾注したい。だからインタビューのほうは、下訳を誰かに頼もうと思っている」というと、彼女は僕の目を真っ直ぐに見据えて言った。

「あの先生、わたしがやってはだめですか?」

英検1級、TOEICは900点超。茂森愛由美が英語に堪能なことを聞いていた僕は、その選択肢も考えないわけではなかった。でもいくら英語ができても翻訳はヘタクソという人を僕はたくさん知っている。翻訳は英語力以上に日本語力が求められるからだ。

それになんといっても今は、声優のトレーニングに専心させるべきときだという思いもあった。たとえこの先、方向転換させるにしても。

「だれかに頼むなら、わたしにやらせてください。先生は、自分が声をあてるなら翻訳から責任を持ちたいと、このお仕事を始められたと聞きました。わたしも、そうしたいです」

「大学の勉強とボイスレッスンとアルバイト、時間はあるのか?」
「わたし、先生が目標なんです」
「僕は根無し草だ。目標にしちゃいけない。君にはもっと…」

君にはもっと高いところを目指してほしい。そう言おうとする僕を、茂森愛由美は遮った。「ピシャリ」と音がするような見事な遮り方。本当に間のいい子だ。

「時間はだいじょうぶです。では、そういうことで。あと、ゲイツとバフェットの映像もお願いします。学生のパートも、わたしが訳します」

そう言って頑固な性質を垣間見せた彼女だが、結論を言うと、完成した翻訳は想像以上にできていた。「ざっとした下訳でいい。あとは僕が調整する」と念を押していたのに、すでに吹き替え翻訳の体をなしていた。

ときどき顔を覗かせる翻訳調の言い回し、訳としては正しくても、誤訳を恐れずあえて大胆に意訳すべき語句、そして語尾の収め方など、いくつか修正を要するポイントはあるものの、それでもじゅうぶん合格点をあげていい完成度だった。

英語に関しては僕なんかよりはるかに高い能力を持っていることはわかっていた。なにしろ僕は、英検1級の二次試験を3回受験して3回落ちた劣等性だ。TOEICには挑戦すらしていない。900点なんてとんでもない。たぶん700点もいかないだろう。

翻訳が完成したら、あとはひたすら読み込みだ。レッスンで、映像を流しながら実際に声をあてていく練習を何度も繰り返した。勘がいいうえに努力家の彼女は、みるみる役をものにしていった。

そのようにして、僕たちは収録の日を迎えた。茂森愛由美にとっては記念すべき声優デビューの日を。

 

(次章につづく)

 

 

今日のボイスメモ、あるいは、声にまつわるささやかな教訓

  1. パートナーを選ぶとき重視すべきはお金に対する価値観だと思う。つまりお金にきれいかどうか。それは事業も結婚も同じだ。
  2. やりたいことを諦めきれず再チャレンジする。一度目はダメだった。二度目もドロップアウトする人は、一度目になぜダメだったのかを正しく理解しないまま進むからだ。
  3. 「こっちが本業であっちが副業」などと言っているうちは、どっちもたかが知れている。
  4. ろくに本も読まないくせに声優・ナレーターになりたがる人が多いのはどうしたものか。
  5. できなかったことができるようになる。その嬉しさ・楽しさをそこで終わらせないように。まぐれではなく法則化させ習慣化させ、そして身体化させ技化させていく
  6. 感情や気分のばらつきがなく、勤勉であり高い集中力を持っている。何より素直で可愛げがあり礼儀正しい。そんな人は少ない。だから一流なのだ。

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