「語り人、何やってるんだ!」
振り返ると、そこにいたのはジョージではなくニックだった。
「あんた、ひどい怪我をしてるじゃないか!
肩もやったな。とにかく診療所に行こう」
「だいじょうぶ。それよりどうした?」
「傷の手当てが先だ。歩けるか?」
「ニック、いいから話してくれ!」
「ジョージのことで知らせがあったぞ」
(5章 「怒りの代償」つづき)
「ありがとうニック、おかげで助かった」
基地の診療所での治療を終え、ずっと付き添ってくれたニックに僕は礼を言った。
「こう見えてオレらは軍人だ。あのドクターも、こういう怪我の扱いには慣れてるさ」
あのあとすぐジョージのことで知らせが入り、ニックはそれを僕に伝えようと、ジョギングコースを見渡せる芝生の広場に駆けつけた。そこで僕とジョガーの追走劇の一部始終を目撃したらしい。僕が最後の蹴りを決めようとした場面でニックが登場したのは偶然ではなかった。
「あれ以上やると語り人、あんたが加害者になっちまってたぞ。それにしても胸のすくような見事なキックとパンチだったな。カラテか? 今度オレにも教えてくれよ」
ニックは空手の型の真似をしながら言った。
「それと、いいな語り人。ドクターも言ってたけど、1週間の加療が必要だ。肩の脱臼は癖になりやすいから、しっかり直すんだ。明日も必ずくるんだぞ。午前中ならオレが国境にいるからよ」
心配になって僕は、治療費の支払いとパスポートの提示について確認した。
「それについては心配しなくていい。オレがうまく処理しておく。一度、ジョージと来ただろう。オレが決裁した。あんたは、我々の大事なゲストだ。もう顏パスでいいよ」
「治療費は払うよ」と僕は言った。治療費と薬代を取らない病院はない。
「状況から見てあのジョガーの男が払うべきだが、あんた名前も聞かないで帰しちゃったじゃないか。それに日本の病院じゃなくてこっちに連れてきたオレの責任だ。まあ、園内の保安については我々も責任を負ってる。細かいことは気にするな。オレの決裁サインは絶対なんだ」そう言うとニックはダミ声を響かせガハハと笑った。
「僕がかっとなったせいでこんなことになってしまって、迷惑をかけて申し訳ない」僕はニックに素直に詫び、礼儀正しく頭を下げた。
「かっとなっただって? オレの目は節穴じゃねぇよ。あんたは自分が怪我をさせられながら敵に外傷を負わせないように攻撃していた。それってあれか、武士の情けってやつか?」
「そんなんじゃないよ。気が弱いだけだ。それに、あの男は敵じゃない」と苦笑いする僕に「戦地じゃ通用しねぇ理屈だな」とニックは片頬で笑って言った。
ニックがかつて湾岸戦争の前線で戦った兵士だということはジョージから聞いて知っていた。いつも陽気なニックだが、この戦争のせいで心を病んでしまったのだという。
人の命を奪い、人の身体と心を容赦なく傷つける。それが戦争だ。そして戦争は戦場だけじゃなく、そこらじゅうで日常的に繰り広げられている。
「とにかく、感謝するならジョージにしな。オレはよ、ジョージに頼まれたんだ。あんたに何かあったら助けてやってくれってさ」
ジョージはニックに、ひとつ頼みごとをしてアメリカに帰って行った。自分がいなくなったら語り人が事情を訊きにくるだろう。語り人は取り乱すかもしれない。気をつけてあげてくれと。
「ありがとうニック。あなたこそ心優しき戦士だ」
「だから、それじゃあ戦地では通用しねぇって言ってんだろ」
ニックは苦笑いして頭を掻いた。
「こんなことならやつのセラピーを受けとくんだったな」
ニックは寂しそうな顔をして言った。
「ジョージはセラピストだったのか?」
「なんだ、知らなかったのか?」
「それじゃあなぜ門衛についてたんだ? 迷彩服を着て」
「ジョージはもともと精神科の医師で、志願して軍医として入隊したんだ」
「軍医?」
「オレたちみたいな外国の基地に駐屯する軍人の心のケアを担当する専門医だよ。門衛はやつがフィールドワークを望んだんだ。もっともあんたに会ってからは、あんたと話をするのが目的だったんだろうけどな」そう言うとニックはイヒヒと笑った。
ジョージが精神科医? 僕はジョージのことを何もわかっていなかった。
僕は自分が恥ずかしくなって、回れ右をして歩き出そうとした。「おい、語り人!」ニックの声にハッとしてもう一度回れ右をすると、僕は「明日も頼みます」と言って頭を下げた。
「ところであんた、そんなに英語うまかったか?」背中にニックの声を聞きながら僕はゲートを後にした。
帰り道、人けの少ない森林の遊歩道を痛めた足を引き摺りながら歩いていると、僕の思考はぐるぐる回り始めた。ものを考えるにはやはり歩くのが一番だ。もう二度と走るまい。そんなことを頭の片隅で誓ったりした。
「でもきみはただの精神科医じゃない」そう声に出して僕は言ってみた。すると目の前にジョージがいるような気がした。
ジョージ、きみは知っていたんだね。お父さんが自分の誕生日に亡くなることを。そうだろう?
僕は覚えている。一度お父さんの話をしたとき、きみはとても悲しそうな、絶望的な表情を見せた。あのときすでに知っていたんだろう?
ジョージ・ワシントンを尊敬するきみのお父さん。
なぜ、お父さんのそばにいてあげなかった? お父さんの死を回避させることはきっときみにもできなかった。そうだね? ひとりでずっと苦しんでいたんだろう。なぜ僕に話してくれなかった?
いや、あの日きみは、おそらく僕に話すつもりだった。少なくとも話したがっていた。それなのに僕は調子に乗って演説をぶった。きみをインチキ霊能者呼ばわりして糾弾した。専門家のきみに向かって、なんて浅薄な論を展開したことか!
釈迦に説法。愚かさもここに極まれりだ。僕のほうこそ、鼻持ちならないインチキ探偵にしてエセ心理学者だ。底が透けて見えるなんちゃって詩人にしてへっぽこ侍だ。
いつだったかきみは、宮本武蔵の『五輪書』の英訳本の一文を諳んじてみせて、僕を驚かせた。そして日本語の原文を読んでくれと僕にせがんだ。
「なんて美しい響きなんだ!」ときみは感動をあらわにした。
「これも読んだら?」と、あるとき『武士道』の英語の対訳本をプレゼントすると、きみは目を輝かせて喜んだ。
僕たちは英語と日本語を交互に音読しては感想を述べ合い、解釈の問題を巡って熱い議論を戦わせたりした。
きみはいまの日本じゃなくて、古き良き日本の伝統文化をよく勉強していたね。僕が舌を巻くほどに。
僕が小さいころから剣道・空手・柔道など武道をたしなんでいたというと、僕のことを「サムライ」と呼んだ。孤独でストイックで求道者のようだと。
「サムライじゃなくて詩人だ」僕が冗談でそう返すと、きみは『五輪書』も『武士道』も、そのエッセンスにおいてすこぶる詩に近い。12世紀ヨーロッパの吟遊詩人は騎士だった。そう得意げに語って僕を感心させた。
ねえジョージ、この10か月間、僕たちは良い友達だったよね。これからもっともっと良い友達になれたよね。
おい、ジョージ! 僕たちは38度線をものともせず逢瀬を重ねた恋人同士さながらの親友じゃなかったのか? もう任務は終わったとばかりに、きみも僕を置いてアメリカに帰ってしまったのか? 僕はまたひとり取り残されるのか?
きみと出会ったころ、僕は切なすぎる別離を経験したばかりだった。自分の愚かさと傲慢さに呆れ果て、人々の無神経さと馬鹿さ加減にうんざりしていた。
そんな僕を、きみはいつも「だいじょうぶ。きみはちゃんと愛したし、ちゃんと愛された。だから後悔しちゃいけない」と言って慰めてくれた。
それなのに僕ときたら自分の傷心にかまけてばかりで、日本に来て間もない、日本が大好きだというきみにちゃんと優しかっただろうか。
ジョージ、孤独なのはきみのほうだった。恐くて震えていたのはきみのほうだった。 本当は人が恐くて、世間が恐くて、そしてそれ以上に自分を恐がっていたのはきみのほうだった。
きみは自分のことを多くは語りたがらなかった。それはセラピストとして僕に接していたから? 僕が何か聞き出そうとすると「語り人のことをもっと知りたい」そう言って僕の話を引き出しては「きみは何も悪くない」と僕の中に根強く巣食う罪悪感を溶かしてくれた。
ああ、どうしてきみは、ひと言の侘びも言わせないまま行ってしまったの?
僕にも言わせてくれ。「ジョージ、きみは何も悪くない!」
僕がいまものすごくきみに会いたがってるって知ってるよね。だってきみは、僕のこと何だって知ってるじゃないか! 違う?
ジョージ、ニックから聞いたよ。正式に除隊したそうだね。
(7章につづく)